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フィレンツェ

2017.01.13 | 

こんばんは。ボナセーラ!

困ったことに、まだイタリアの余韻、時差が残っております。。

イタリアでは寒波で寒かったのですが、日本も寒波がきていますね。

石造りの多いイタリアでは、部屋の中は暖かかったですが、日本は部屋の中でも寒いところも多いのではないでしょうか。。

風邪をひかないように気を付けましょう。

さてイタリア研修、ヴェネツィアの次はフィレンツェです。

アルノ川のほとりにあるフィレンツェは、日本の京都とも姉妹都市のまちです。

フィレンツェには、3つの大きな広場、シニョリーヤ広場レプッブリカ(共和国)広場ドゥオモ広場がまちの中心にあります。

レプッブリカ(共和国)広場は19世紀に現在の形に整備されましたが、もともとはローマ時代の政治・宗教の中心(フォロ)であり、中世には市場機能をもつ広場となりました。この広場を中心に東西南北の中心軸上に道路が敷かれいます。まちは格子状に作られ、ローマ時代、中世前期、後期とまちは拡大し、城壁の位置も変わっていきました。

レプッブリカ広場。クリスマスツリーがまだありました。メリーゴーランドもあります。

ルネサンス期になると、フィレンツェは芸術の都として、黄金期を迎えます。大聖堂のクーポラの建設の設計競技でフィリッポ・ブルネレスキが選ばれ、今まで誰もつくれなかった程の大きなクーポラをつくりました。このクーポラは2重構造によってできており、その隙間に階段があり、頂部まで登ることができます。ただ残念なことに、たくさんの行列ができており、頂部までの登頂は断念しました。

ドゥオモ広場

ブルネレスキのクーポラ

フィレンツェのまちには、をもった住宅が多くあり、貴族が高さを競っていましたが、13~14世紀にヴェッキオ宮の塔ができて、政庁舎として使われてからは、これ以上高い塔は建てられなくなりました。

16世紀メディチ家のコジモ1世の時に、ウフィツィ宮殿(現在のウフィツィ美術館)が建設され、宮廷の拠点は、アルノ川の南の方へ移されました。それに伴い都市改造が行われ、ヴェッキオ宮からピッティ宮殿(ヴェッキオ橋を渡った先)まで空中通廊が既存の都市軸線上に重ね合わされました。ヴェッキオ橋の上部回廊はその時にできた回廊です。この頃から、シニョリーヤ広場が政治の中心となったのです。

ヴェッキオ宮とその前のシニョリーヤ広場

ヴェッキオ橋と上部通廊

ウフィツィ美術館とヴェッキオ宮

ウフィツィ美術館内部

ウフィツィ美術館には、磯崎さんのパネルがありました。ウフィツィ美術館の新しい玄関の設計コンペで選ばれた際のものです(1999年)。その後、計画は止まってしまったようです。

ヴェッキオ宮から東方面へ行くと、サンタ・クローチェ教会があります。ミケランジェロはじめ多くの文化人の墓や、ドナテルロによるレリーフ「受胎告知」が有名です。また、美しい回廊があります。

サンタ・クローチェ教会