こんばんは。ボナセーラ!
イタリア研修の最後はローマです。
ローマは一日にしては成らず、という言葉がありますが、
ローマ時代から現代まで、まさに積層してできた魅力ある都市です。
歩いてみると、次々と発見と驚きがあります。
ローマは7つの丘とテヴェレ川からなり、丘に挟まれた低地には湿地帯が広がっていましたが、紀元前6世紀の下水道設置により排水機能が整備され、そこに都市の中心、フォロ・ロマーノが建設されました。フォロ・ロマーノの西側にあるカンピリオドの丘には、神殿が建てられ、ギリシャのアクロポリスと同じような役割を果たしていました。フォロ・ロマーノには、ローマ皇帝が次々とフォロを造営し、またコロッセウムも建設され、次第に拡張されていきました。開発は、カンピリオドの丘の西側にも拡がり、パンテオン、ドミティアヌス競技場(現在のナヴォーナ広場)がつくられました。現在のパンテオンは、125年に完成したもので、コンクリートが使われています。
↓フォロ・ロマーノ
↓コロッセウム
↓パンテオン
↓パンテオン内部
313年コンスタンティヌス帝のミラノ勅令により、キリスト教が公認されて以降、教会が建てられるようになります。
ローマ帝国崩壊後はローマの都市は衰退しますが、聖ペテロが祀られているヴァチカンに教皇庁が移されると、ヴァチカンを中心にローマの都市改造が進みます。16世紀には、ブラマンテによるサン・ピエトロ大聖堂の本格的な建て替えが始められますが、この建て替えには多額の費用が必要で、いわゆる免罪符(贖宥状)の販売によって資金を集めようとします。このことに疑義を感じたルターが批判の声をあげ、宗教改革が始まるのです。
サン・ピエトロ大聖堂の建て替えが進んでくると、教皇はミケランジェロを呼びます。ミケランジェロは、ブラマンテの案を発展させながら、美しいドームを実現させました。さらに、ローマの中心であったカンピリオドの丘を整備し、左右対称の美しい広場へつくり変え、教皇による都市統合のイメージをより鮮明に視覚化させたのです。
↓サン・ピエトロ大聖堂
↓カンピリオド広場
16世紀末になると、ローマでは宗教改革に対抗する気運が盛り上がり、巡礼ルートを整備する目的で、7つのバシリカ(ローマ教皇によって宗教的特権を与えられた七つの教会堂;サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂、そしてサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂)を直線道路で繋ぎ、広場にランドマークとしてオベリスクを建てました。こうして、道路を進むことによってドラマチックな空間体験が現れる、バロックの都市空間をつくりだしました。
↓サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
↓サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂内部
17世紀に入ると、ボッロミーニ、ベルニーニ、コルトーナらが活躍し、バロックの都市をより演劇的に仕立てていきます。サン・ピエトロ大聖堂前の楕円の広場はベルニーニによるものです。その他、ボッロミーニによるサン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂や、ベルニーニによるサンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂があります。
↓サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂
↓サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂
↓サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂内部
18世紀には、スペイン階段やトレヴィの泉がつくられ、19世紀にイタリアが統一され、ローマがイタリア王国の首都となると、大規模な再開発が行われ、ローマの新たな中心としてカンピリオド広場の隣にヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が建てられました。
↓スペイン階段
↓トレヴィの泉
↓ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂